弘輝(こうき)七年、轟騨 弘十郎 魔星 靖綱(ごうだ こうじゅうろう ますたー やつすな)
将頑駄無に就任、


 あるいは、この時には、まだ止める事は出来たのかもしれない。



 弘輝元年の魔殺駆の乱(まざくのらん)(『天の島』事件)より六年余りが過ぎ、老齢の為、隠居を申し出た将頑駄無、轟騨 覇道和守 兵九郎 靖盛(ごうだ ばどわのかみ へいくろう やすもり)、すなわち、轟天頑駄無(ごうてんがんだむ)の推挙により、実弟である魔星が家禄を継ぎ、新たに将頑駄無として出仕する事となった。

 この時より、魔星が覇道和守となる。役高を含め、五十八万八千石の大大名である。



 魔星が就任してまず行った事は、国内の兵器産業の見なおしであった。

 徹底的な効率化、また、停滞気味な基礎技術研究の強化等、魔殺駆の乱以後、縮小の傾向となっていた兵器産業に積極的にてこ入れした。

 これに対して、当時、老中、若年寄などといった要職を占めていた保守派の西国大名等は強く反発したが、弁舌巧みな魔星は、若くして影舞乱夢(えいぶらむ)、赤流火穏(あるびおん)といった他国に留学して得た多くの知識を武器に、彼等をことごとく論破していった。

 魔星の論法には、表面的な和平論のみでは太刀打ちし得ないだけの説得力が有り、仮にも政(まつりごと)に関わる者として無視できるものでは無かったのだ。

 正攻法で無理ならばと、幕閣において彼を孤立させようと目論むも、前将頑駄無である兄、轟騨靖盛の築いた強固な人脈がものを言い、魔星は異端視されつつも将頑駄無としての地位を維持し続けることとなる。



 そして、弘輝八年度総合軍備拡充案、評定(ひょうじょう)にて採決される。

 魔星は、闇帝王襲来時において、通常兵装が闇の者に対して有効に機能しなかった経験が後の魔殺駆の乱においてほとんど活かされていなかった点を強く指摘。

 魔界の扉を抱く天宮(あーく)の地にあって、闇の勢力の台頭が魔殺駆の乱が最後であると考えるのは危険であると主張し、魔殺駆の乱における経験を生かし、大将軍の御力にすがらず、天界の加護無くして、人の力にて闇に打ち勝つ為に備えるべし、との方針の元に天宮全軍の見なおしを行う軍備拡充案を評定(会議)に提出。

(今日では、この主張は建前であり、魔星はこの時、影舞乱夢と赤流火穏、二国との同時直接対決を考えていたというのが定説である。)

 この案は全面的に採決され、「弘輝八年度総合軍備拡充案」として実施される事となる。

 この時期には、魔星は保守派と対立する改革派に支援されるようになり(事実上、魔星が彼等を支援していたようなものだが)、徐々に天宮全体の政に対する発言力をも持つようになっていった。

 この時の軍拡案の採決も、魔星と改革派による様々な事前の根回しによるものと言われている。



 弘輝壱拾壱年、魔星、副将軍に就任

 保守派西国大名等にとって、本来は軍事を一手に担うのみの存在であるはずの将頑駄無が幕閣での発言力を増す事や、それ以上に、彼に便乗することで一時は完全に押さえ込んでいた改革派が息を吹き返す事は非常に面白く無い事であり、様々な手段を講じ魔星の失脚を目論んだ。

 だが魔星は、恐るべき周到さで彼等の罠をすり抜け、反対に子飼いの密偵に各藩の情勢を事細かに探らせ、弱みを握り、巧みにつけ込み、ことごとく彼等を懐柔するか、応じない者は策を以って改易に陥れた。


 何時しか西国大名達は、彼を『東方不敗』と呼び、恐れるようになった。



 当時の幕府における派閥関係の成立は、初代大将軍の実子である武威ノ進(ぶいのしん)と武威丸(ぶいまる)、この兄弟を口実にした幕臣たちの権力抗争にまでさかのぼる。

 先に述べた様に、当時の幕閣の重職の大半を占めていたのは譜代、つまりは、闇帝王襲来時に轟天の「天宮自警団」に参じた主に西国の大名達であったが、彼等の保守的政策に反発する幕臣は幕閣の内外に多く存在した。

 彼らは、大将軍の次男である武威丸を大将軍に推挙して実権を握らんと画策したのだ。

 長幼の序が在る以上、武威ノ進が大将軍となるのは当然の事ではあったが、年の近い二人は何かと比較されることも多く、剣術に明け暮れ治世に必要な知識を学ぼうとしない武威ノ進より、古今の知識に関心を持ち気性も穏やかな武威丸が大将軍にふさわしいと思う者は決して少なくは無かった。

 彼らは水面下において結託し、外様の大大名がこれに荷担する事によって、無視しがたい勢力へと成長した。

 反面、幕閣の重臣達には、政の実務を行うのは大将軍ではなく自分達である故、大将軍に余計な知識など無用と考える向きが強く、彼等にとっては政に疎い武威ノ進が大将軍となった方が己が実権を維持できるという点で好都合であった。

 当の本人等に全く対抗意識が無かったにもかかわらず、武威丸派と武威ノ進派の勢力抗争という図式が次第に成立していった。

 事態は、両派の大大名に牽引される形で天宮諸藩にまで波及し、二大派閥同士の争いは熾烈を極めた。

 結局は、先の魔殺駆の乱において、結晶鳳凰(くりすたるふぇにっくす)が飛駆鳥(びくとりー)(武威ノ進の元服名)を直々に大将軍に任命する、という形で幕を閉じ、武威ノ進派であった西国大名達が政権を握り続ける事となる。

 その保守派が、魔星の将頑駄無就任から僅か三年足らずで幕閣から一掃される事となる。

 新たに魔星を筆頭として勢力を盛り返した改革派が完全に実権を握る事となり、十数年間に渡り続いた保守の時代は終息を迎える。

 程無くして魔星は、飛駆鳥大将軍就任時より空席となっていた副将軍の座に就くこととなる。



 魔星の政には隙が無かった。

 幕閣の重臣一人一人の能力・素性を把握した、完璧な采配。

 時に大胆、時に繊細な、多彩な政策。

 長年、塩漬けとなっていた数々の難問に積極的な解決の糸口を与えた。

 また、戦乱に疲弊していた国家に活力を与えるべく策を講じ、民からの信望も厚かった。

 その一方で、大名に対する諸法度を強化。藩同士の対立・結託を固く禁じ、諸藩の動きを徹底的に監視する事で、国内の基盤の統一を図った。

 もはや、彼に逆らう者は居なかった。

 今や轟騨家は、新たな所領を含め、百三万六千石という、史上最大の大大名となっていた。



 弘輝壱拾三年、重戦闘動甲冑大隊、実戦配備完了。


 弘輝八年より、五年計画で取り組んで来た総合軍備拡充計画は終に所期の目標を達成し、その最大の成果である、重戦闘動甲冑大隊、五個大隊は、天宮の主要都市、港湾部等に重点的に配備された。

 魔星の軍拡政策は、武士階級の支持は高かったが、民の暮らしに貢献する物では有り得なかった。

 にもかかわらず魔星が民の支持を失わなかったのは、ひとえに徹底した欺瞞(ぎまん)工作によるものであったのだ。

 下層の民は当初、あの重甲冑大隊すら天宮自警団の災害対策用重装備であるという発表を鵜呑みにしていたのだ。

 魔星は焦らず、国内情勢を巧みに操り、徐々に軍備の必要性を民に植え付けようとしていた。

 そして、徐々に、徐々に、国家全体を臨戦体勢に向けようとしていた。

 ・・・唯一人、彼の上に立つ存在である大将軍は、魔星のやり方に一切口を挟む事は無かったという。

 この時、天宮は魔星の手中にあったのだ。


 彼が一体、どこへ向かっていたのか、その結論は、今後の調査を待たなければならない。



 時に弘輝壱拾五年、動乱の幕開け・・・

あとがき

戻る Back to home