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"リアル"と"スーパー"の境

下の記事のコメントでお話していた内容ですが、
どうもコメントだけで語ることでも無い気がしてきたし、
ネタを出して私論を出さない投げっぱなしジャーマンもなんだな、ということで。


なんで、今更掲題の事を語る気になったかは、上記の記事のコメント参照。

まぁ、『ダブルオー』見ていて、コレってもうスパロボじゃん!という話なのですが。


私的に、"リアル"路線と"スーパー"路線の分かれ目は、

考察量

では無いかと考えております。


"リアル""スーパー"という分け方は、『スーパーロボット対戦』あたりが
最初に定義しだしたと記憶しておりますが、ここでは割愛。


起きている事象や、設定に用いられている科学がスゴイ、というだけなら、
リアルロボットどころか、今、現実そのものが"スーパー路線"ですよね。

とうとう、熱光学迷彩まで実現化が考えられ始めているし、
戦闘機のデザインはもう空力音痴には理解不能の域に達しつつあるし、
走って踊れるロボットが開発され始めている。

それでいて、サイバネティクスとか、"人間本体"に関わる所には、
まだまだフロンティアが広がっている、というのがそれっぽい。


でも、現実なもんですから、あくまでリアル路線というかリアルですってば(笑)。


"スーパー"な作品では、使用されている設定が、およそ"未検証"で問題なく、
あくまで、世界観や、ストーリーを形作るためだけのものである、と思われるのです。

"このロボットは他のロボットを圧倒する">"何で?"
"すごい動力を持ってるからだ!">"どうして?他のロボットは持ってないの?"
"んなもん知るかー!">"うひゃあ!"

みたいな。

私的に、この作品の方向性の一端は、
ガンダムに襲撃され手首を失った女の子が、

"GN粒子には毒性があり(略)、腕の再生治療が行えない。"

というエピソードに現れているのでは無いかと。

なんか、まともに考えれば、

手首が無理なら、もうちょっと上から切っちゃえよ。再生できるんだから

と当然考えますが、その辺は解説無し。
ただ、
"ガンダムに襲われて、手首(と大切なもの)を失った少女"
という登場人物を作るためにのみ、"毒性が云々"設定が設けられているわけで。


では、この"GN粒子の人体への悪影響"を、事細かに設定し、
突き詰めて考えればリアルになるのか。

正味の話、
そのとおり
というのが、私の考えです。

ただし、それは非常に多岐に渡る考察で実現されるレベルです。
これを考えてゆくと、
"なんでそんな危険な粒子が使われてるんだ?"
とか、
"そんなモンを民間人に向けるパイロットが何でいるの?"
とか、
この作品の結構、根幹にあたる設定にまでさかのぼってゆく・・・、
いや、さかのぼれるからこそ、考察、という事で。

ワリバシひとつ、皿一枚から、その世界の情勢を描き出せる、
そんな鋭く、しかし地道な積み重ねがある作品、
それが"リアル路線"だと、私は考えるわけで。


お約束なので付け加えておくと、
別に、そういった考察が無い作品が悪い、とは決して言わない。

無理を通して、通しっぱなしで、あとはご想像にお任せ、の方が良い場合も多くある。
グズグズ説明ゼリフ言ってるうちに注目すべき点からフォーカスがぼやけて、
あいまいな作品になってしまう事もあるし。

そして、コレを利用して、
限りなくスーパー路線のフリをしておいて実はリアルという作品も構築しうる。

いや、ナニ。
作中じゃほとんど全く語られないけど、実は設定は事細かに存在している、みたいな。

まぁ、そのレベルまで作りこまれていれば、
あとは演出次第でスーパーにもリアルにも作れる、ということで。
その点で、
あくまで"設定に要した作業量"という観点で
確かに"リアル"は"スーパー"の上位に位置する、と、
危険なことも言っておく(邪笑)。


極論、
"材料力学観点における『マジンガー』と『グレートマジンガー』の形状の差異とその特性"
なんて論文を真面目に書き切れれば、あの作品だってその日からリアルです。

でも、現状、あの作品はそんな屁理屈無くても十分成り立っている。


と、まぁ、
ノリで、ちょっと危険な論議に(笑)首を突っ込んでみたり。

個人的に、後期ダブルオー、今のところは前期よりも好きですね。
というより、
スパロボと割り切ったことで良さが見え出した、というか。

とりあえず、リアルだスーパー云々以前に、
面白い作品になってくれる事に期待。

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コメント

個人的に、リアルとスーパーの境目は

“主人公が「スーパーヒーロー」かどうか”

だと思っております。


例えば、マジンガーZやゲッターロボなど、いわゆるスーパーロボットは(少なくとも物語上は)たった1機だけで、巨大な敵組織との戦いに勝利する(もしくはその寸前まで追い詰める)ほどの活躍をした「スーパーヒーロー」ですが……

それに対して、いわゆるリアルロボットは主人公機でも飽くまで「いち兵器」であり、たった1機で戦争の行方を左右する……というほど強くありません(ガンダムが常に勝利してきたのは、「勝てる相手」だけと戦ってたからではないかと)
アムロやカミーユにしたって、性格的にはおよそ「ヒーロー」からは掛け離れています。


たった1機のガンダムだけで戦争を無くそうとしているダブルオーは、ある意味その境目にあるのでしょうか?

どうもー、わーい、ですよー、壱樹さま!

>主人公が「スーパーヒーロー」

 ・・・ああ!
 しまった、その発想はほんとに無かった!

 考えてみれば、だいたいの作品で、”主人公”が設定され、
 その主人公にスポットを当てて物語が進行し、
 そして、お話的には、
 その主人公が”何か特別なこと”をする事で進んでゆくわけですが、
 その”特別なこと”が、常軌を逸していることか、
 というのは、確かに、一つの大きな判断基準になりそうですね。

 なるほど、確かに、アムロは、常人離れしたパイロットだったし、
 ガンダムは常識外れのスーパーマシンだった、
 しかし、常勝無敗では無かったし、
 (勝てる相手にしか勝ってない、というのは実に鋭い(邪笑)。)
 別にそれらが無くとも、
 一年戦争の大局には恐らく影響は無かったであろう点で、
 彼等は一兵卒&一試験運用機にすぎなかった、と・・・。

 確かに、こういう観点でダブルオーを見ると、
 正に、境目的ですね。
 刹那君たちがやらなければ、だれもやらないのか?
 後期の初っ端で、”世界は何も変わらなかった”とゲンナリしていますが、
 彼らの行為が、”一時的な、大規模テロ行為”であって、
 遅かれ早かれ、だれかがそういう事をして、同じ情勢になったのか、
 それとも?みたいな。

 個人的には、
 ダブルオー後期は”リアル35:スーパー65”くらいですかね。
 前期は、”リアル20:スーパー80”くらいか。
 (前期ガンダムがあんまり無敵だったので(笑))
 半々ぐらいが、演出的には難しいけど一番面白そうなので、
 いいバランスになってきたのかも?だから演出ガンバレ(笑)。